「参加する仏教(3)」私の炊き出し参加前史

真宗僧侶 山田蓮孝


 小学校四年の頃であった。祖母と一緒に我が家の近所を歩いていた時、建築工事現場の前を通った。現場では、建築労働者の人々が忙しなく資材を運んだり、一輪車を押したりしていた。そこを祖母が指をさして、こう言った。
「学校出ないと、お前もああいうふうになるんだよ。」
そして、これも当時大人たちから聞かされた事だが、駅裏は怖いところだから近づくな、と言われたものだ。日暮に名鉄電車に乗ったとき、金山を過ぎ、中日球場前を過ぎたぐらいから、名古屋駅が目前になる。その時、駅前は明るく輝いていたが、駅裏は暗く裏びれくすんでいたことが印象に残っている。
 
 その他、記憶に残る差別偏見の言葉を記す。
 
・中学校教師の言葉
  「勉強しないと、将来蕎麦屋の出前持ちぐらいにしかなれないぞ。」
  その言葉を聞いた生徒がつぶやいた。
  「出前持ちがいなけりゃ、蕎麦が頼めないじゃないか。」
 
・高校教師の言葉
  「何だ、そのだらしない格好は。駅裏のアンチャンか。」
 
・年輩者ふたりの言葉
  「築港の人足は、安い外米の丼めしを食べとるんだ。」
  「へえー、そんなものばかり食べているんだねえ。」
 
 以上のような言葉派に対して、少年期の私は無批判に受容した。そして、私の内で肉体労働者(この言葉は差別用語かもしれぬが、他に適切な言葉を知らないので、あえて使用させて頂いた)に対する差別意識が形成され身に付いていった。
 
 大学卒業後、社会福祉施設の指導員を経て、88年に真宗僧侶となった私は、翌年89年より行き倒れ、及び生活保護者中心の某葬儀社の葬儀を引き受けるようになった。このような葬儀は、遺族が式にやってこないことも珍しくない。中には、故人にさいてわかるのは性別だけという場合もある。
 (一体、この人達はどのような生き方をしたのだろうか。まてよ、死に方で人生の優劣を考えることは差別ではないのか。また、いのちそのものに優劣などない。)
 私の内から疑問がわきあがり、自己批判から社会批判へと進んでいった。
 中村警察からの葬儀がきっかけとなり、私は駅裏へ足を運んだ。少年時代の記憶の駅裏とは随分変わり、予備校、専門店ビル、高級ホテルが建っているが、一泊1900円の旅館が健在である。そこへ泊まろうと宿の受付に声をかけたが、おたくが泊まる所じゃないと門前払いだった。もう一軒行ってみたが、そこも断られた。
 (そう簡単に接することはできぬようだ。今まで私の方から接することをしてこなかったのだから。)
 体を壊し入院したので、この葬儀社と縁が切れたが、私の内から路上死する人々との縁が切れることはなかった。
 今回は簡単に私の炊き出し参加前史を綴ってみた。 合掌


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