典礼による学び(1)

神言会 修練長 市瀬 英昭


 私たちは毎日いろんなできごとや人に出会いながら、意識的に、また無意識のうちにもさまざまなことを学びながら生きていると言えます。では学ぶとは一体何でしょうか。人が何事かを学ぶと言うとき、そこには何が起きているのでしょうか。多く学ぶ、深く学ぶ、学びが少ない、学びが浅いなどと言いますが、それらはどのように違うのでしょうか。
 それからさらに、生き方を学ぶということばもありますが、そこではある情報を手にいれること以上の何かが暗示されているようです。それはどんな事態をさしているのでしょうか。このように、一言に学ぶといっても非常に多く側面があり、多くの層があるようですが、基本的にはこう言えるのではないでしょうか。つまり、学ぶとは新しい知識を得るにせよ、ある体験をするにせよ、そのことによってこの私が自分自身として成長、成熟していくことである、と。あるいはまた、いろんな考え方や見方に気づくだけでなく、自分がどこから見るのか、という自分の視点が確立してくることだ、とも言えるでしょう。このことは何かが知的に理解されて納得されるということにとどまらず、本人自身の生き方が変化し深まっていることを意味しています。いわゆる、顔つきが違ってくる、ということが起こるのだと思います。
 こうして、このような学びは自分の中で終わってしまうのではなく、周りへ拡がっていくことになります。たとえば、関係、関わりという問題について学ぶということは、抽象的に思索して終わってしまうのではなく、どうしても関係の中に生きるということに進んでいくはずですし、更に、さまざまな障害に出会いながらも新しい関係、関わりを創り出していくことに展開していくでしょう。もしそうでなければ、それは学んだことにならないのです。そして大切なことはこのような学びが決して自動的、機会的に起こるのではなく、そこにどうしても自分自身の責任や決断、自由あるいは忍耐や感謝そして愛といわれる事がらが必要になるということです。コンピューターにデーターが入力されるのとは訳が違うわけです。そうして、このような学びを通して、人間が人間であることの意味と価値が浮かび上がってくるのです。その意味で、学ぶということは人間が人間になっていくこと、私が私になっていくことだ、と言うことができます。
 キリスト教を学ぶということも。以上のこととの関わりの中で理解されるべきであろうと思います。つまり、キリスト教の使命は、現実の世界が本来のあるべき世界へと回復すること、私やあなたがその本来の喜ばしい姿を取り戻すことへの励ましにあるのであって、余分な重荷を負わせて私たちを窒息させることにあるのではありません。もちろん、易きに流れやすい私たちに警告を与えるということはあります。しかし、それは本来の生き方への招待のはずです。もしそうでなければ、教会はキリストの生命を裏切ることになりかねません。キリストのメッセージをその研究の対象とする神学は大きく分けると三つになると言えます。それは歴史的な分野、理論的な分野そして実践的な分野です。もちろんこれらは実際のはもっと複雑で交錯しあっています。それぞれにキリストの喜ばしい生命をいかにして私たちにもたらすことができるかへ向けてそれぞれの持ち場で誠実な取り組みがなされています。この史学、理論学そして実践という区別は次のような例で理解するといいと思います。モーツァルトの音楽を取り挙げましょう。彼の自筆のスコアを確定することが史学(例えば、聖書学)、その全体の流れがどうであり、モティーフがどのように繰り返され、それは何を訴えようとしているのかなどについての理論的な把握(例えば組織神学)、最後はしかし、実際にその楽譜を「演奏する」ことが必要です。そうしてこそその音楽のいのちが伝わるのですから。これが、実践的な分野です。(例えば、典礼学)
 さて、話を戻して、学ぶことが人間が人間らしくなっていくという事がらはキリスト教的人間観ではどう理解され表現されているのでしょうか。これを「信仰の学び舎」と言われる「典礼」の場に絞って考えてみたいと思います。その中でもキリスト教生命の源泉、頂点であると言われる「感謝の祭儀」をモデルとして、以下数回に渡って述べてみたいと思います。
(この数回に渡る連載は、次のものに記載された小論を書き直したものであることをお断りしておきます:南山短期大学人間関係科監修「人間関係トレーニング―私を育てる教育への人間的アプローチ」ナカニシヤ出版 1993年3刷)


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