「キリスト教の福音から」

福信館炊き出し代表 竹谷 基


 キリスト教の福音
 キリスト教の福音が「神は無条件に万人を愛している」ことであることは誰もが認めるでしょう。

 さて、キリスト教のもととなった旧約聖書の人々はイエス誕生の1000年前から既にそれを人間観として掲げていた、と言う。これには全く驚かされる、古代世界とは未開で野蛮と言うイメージがあるが、高度な文明の現代世界においてさえ、「人間みな平等」の基本的人権が守られていないから。旧約聖書を書いた人々の初めはヘブライ人と言われる。彼らは種々雑多な人々で、現代で言う難民であった。なかには、出稼ぎ労働者、犯罪者、逃亡者、傭兵、羊や山羊の小家畜飼育遊牧民、等々がいた。言わば、最下層の人たちがパレスティナ地域に入り込み、定住するようになったのは、紀元前1300年頃であった。初め、彼らは小さな部族単位で定住を始めたが、やがて、その部族同士が相互に協力して共同体を形成して行くこととなった。その際、一つの共同体になるための旗印、基本理念を持った。それが現代で言う人権宣言、「神の前では、誰もが自由、平等、独自な存在」だった。各々の部族は、それを神の啓示された言葉として、神と契約を交わした、つまり、人はその人権宣言を守り従うこと、神は人がそれを守り従う限りその土地に住まわせるという約束を交わしたのであった。旧約聖書の神と人との関係は「契約」であり、そのためには神と人は自由、対等であること、人は神の言葉(契約の内容)を理解する成人でなければならない。所謂、摩訶不思議な神が厄災から人が守ってもらえるように、人が生け贄や祭儀を行う、と言う「信仰」の関係ではない。

奴隷からの脱出
 そのようにして、ヘブライ人は新しい人間集団を人権宣言の実現する場として形成しようとした。そのために、彼らは具体的な在り方、その指針を神の言葉、掟、律法として受け止めたのであった。旧約聖書出エジプト記の脱出、契約締結をその経過の歴史物語として私たちは読まなければならない。神と契約するための自由人になるべくしての「脱出」として。

 人が自由人になるには色々捨てなければならない。例えば、パン。人はパンを得るために仕える。家、会社とか、地域、国家に。社会は「働かざるもの食うべからず」を強制し、過労死、病気になっても「自己責任」にする。今回の参議院選挙のように、人はパンのために憲法改悪、原発再稼働を選んでしまう。エジプトを脱出した人々はパンのためエジプトに帰ること、奴隷に戻ることを主張した。マナの降った話しはその不平不満を言った人々に語られた。人はパンを得、安定した生活を得ようと仕える。仕える限り、生と死を自分では選べない、権力に従うしかない。そこには、競争がはじまり、格差が生じ、差別・不平等が起きる。ところが、パンは与えられる、のであれば、競争や格差を生じない、不公平・不平等はない。パンは与えられる、それは天から降ってくるのではなく、人間相互が与え合うこと、つまり、相互扶助を指している。そこに人権宣言が現実になる、と言うのがマナのメッセージだ。今や、得る、持つことを絶対価値とし、生き馬の目を抜くする現代世界ではこのメッセージは一笑に附付されるだろう。

教会の責務
 しかし、教会は初めに挙げたキリスト教の福音「神は無条件に万人を愛している」を言うだけでなく、苦闘して実現に近づくことにこそ存在理由があるのではないか。ホームレスの方たちとの関わりもその視点から取り組んで行きたい。

 今後とも、みなさまのご理解・ご協力を福信館炊き出しに賜りますよう、お願いいたします。

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