巻頭言

典礼による学び(10)

神言神学院 院長 市瀬 英昭


 祭壇に供え物が準備されると、司祭は会衆を祈りへと招き、奉納祈願を唱えた御、感謝の祭儀全体の頂点と言われる「奉献文」の朗唱に入ります。初めの「主はみなさんと共に−また司祭と共に」「心を込めて神を仰ぎ−賛美と感謝を捧げましょう」という対話句は、この祈りが司祭の個人的なものではなく、全会衆のものであることを確認する意味を担っています。「心を込めて」はスルスム・コルダの訳ですが、直訳するなら「心を上に(上げよ)!」となります。人間の特徴は直立して上を見上げる姿にあります。その姿は自分を超えた超越的存在に心を向けるシンボルでもあります。私たちはどこからどこへ向かって生かされているのかを知るときに人間らしく生きていけるのではないでしょうか。
 イエス・キリストという歴史的存在において、私たちへの配慮がどれほどのものであるかを示された父なる神に向かって感謝の祈りが捧げられるのが「叙唱」の部分です。「福音(喜ばしい知らせ エウバンゲリオン)が「感謝(感謝の祈り エウカリスティア)」を呼び起こす、という典礼祭儀の基本的な構造がここにも見られます。会衆の前で、会衆を代表して、情景を描き出すような仕方で司祭が朗唱するこの祈りはここに今集う会衆だけでなく「天使たち」も伴って「サンクトウス」の合唱へと誘います。典礼祭儀は、天地を包む真の共同体の祭儀である、とここでも理解されています。
 奉献文という用語は、カノン、アナフォラ、捧げ、感謝の祈り、など多く呼び名で言い換えることができますが、それらの共通点は「感謝する」ということにあります。感謝するということもまた人間の特徴であると言えます。感謝するとは自分が誰かまた何か他の存在に依存している、ということを喜びをもって承認することです。そしてそれは人間の根源的な欲求の一つをなしています。父なる神に感謝を捧げることで人間が人間となっていく、ということです。ただし、この礼拝の対象を間違えると(「金の牛」や名誉や財産や人間などを礼拝に対象にするとき)、人間は非人間化されることになるでしょう。
 祭壇上のパンとブド酒がイエスのからだと血とされるように(イエス自身のいのちを運ぶもの)とされるようにと「聖霊の降下を願う祈り」(エピクレーシス)が祈られ、「最後の晩餐」の際のイエスの言葉が朗唱されます。イエスの象徴的な動作、パンを「取り、感謝し、裂き、与える」という一連の動詞は、福音書の中では「パンの奇跡」や「エマオの弟子」の場面にも繰り返されています。これは「パンを裂く式」つまり、現在の「感謝の祭儀」において「復活の主」に出会えるのだ、という経験を示しています。
 「私の記念としてこれを行いなさい」という言葉は、単に、ある儀式を行うことを求めているのではなく、「イエスの心を忘れないように」という意味を持っています。愛によってしか人間は生きられないのだ、と身をもって教えてくれたこのイエスを決して忘れることのないように、との思いを込めて受けとめられ、書き留められた言葉です。ヨハネ福音書にはいわゆる「聖体制定の記事」がありません。その代わりに、13章から始まり17章まで続く長いイエスの「告別説教」が記されており、これが最後の晩餐の雰囲気を醸し出しています。そしてその冒頭の個所に、弟子たちの足を洗うイエスの姿が描かれており、同時に「このように行いなさい」というイエスの言葉が記されています。思い出すとか記念するとか愛するということが決して観念的なものではないこと、そうではなくて、実際に行動、生き方を伴うはずであることが、ここでもはっきりと記されています。この洗足の水は「洗礼の水」でもあります。洗礼の恵みを受けた人は同時にその使命をも受けることになります。喜ばしい応答としての使命を。イエスがそうであったように、他者に生かされ他者を生かす存在になっていくように、との使命を。


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