「原発事故が問うもの」

NPO法人チェルノブイリ救援・中部
河田昌東(かわた まさはる)

 東日本大震災に伴う福島第一原発事故から早くも5年が経過した。しかし今も10万人を超える人々が故郷を追われ、家族や友人知人と分断されたままの暮らしを強いられている。政府は帰宅困難地域の大熊町や双葉町、浪江町などを除き、年間20mSv以下になった所は帰還させるとしている。しかし、これはあまりにも無謀である。そもそも放射能汚染の許容レベル(空間線量率)は放射線障害防止法という法律で定められており、一般人は年間1mSv、仕事上放射能を扱う病院や大学の研究室の作業者でも年間5mSv以下(放射線管理区域という)であった。年間20mSvは原発労働者の基準である。子どもを含め、一般人を原発内と同じ環境で暮らせと強いることは人道上許されることではない。

 更に、土壌などの汚染物質の処理についても、事故前とは全く異なる対処をしている。原発事故前は土壌などの汚染レベルの基準はセシウムの場合100Bq/Kg以下、であった。これは原発がいずれ廃炉の時代を迎えた際、膨大な量の汚染物質が生ずるが、それを特別な処理場に運ぶ際に、作業員の被ばくを年間0.1mSv以下に抑えるためだ、とされていた。しかし、福島原発事故が起こった直後の2011年5月、環境省は秘密会合を開き、基準を突然8000Bq/Kgに引き上げたのだった。その根拠は定かでない。その結果、福島県やその近隣地域で出ている膨大な量の除染廃棄物の処理に関しても、8000Bq/Kg以上のものは大熊町と双葉町に設置する中間貯蔵施設に搬入するが、それ以下のものは発生した地方自治体で処分すべし、となった。中間貯蔵施設の設置は住民の同意がなかなか得られず、搬入が大幅に遅れているため、自治体の仮置き場に置いたままの廃棄物は半減期の影響で徐々に下がっている(半減期はCs137が30年、Cs134は2年)が、政府は8000Bq/Kg以下になったら、それは自治体で処分すべし、として時間稼ぎをし、中間貯蔵施設への搬入量を減らそうと目論んでいる。その結果、福島県だけでなく北関東の広範な地域で汚染が既成事実化されてしまう。例えば下水処理場の汚泥は福島県以外でも汚染は強烈だ。

 空間線量率にせよ土壌汚染にせよ、すべては既成事実が優先され、事故前の基準は無視されたままである。長い目で見れば、これは国民全体の被曝をもたらすものでしかない。事故前は放射能を出来るだけ拡散させず、小さくまとめて処分し被曝を最小化する、というのが放射能に対する基本的な考え方だったが、原発事故によってこの理念は完全に逆転し、放射能を出来るだけ拡散させることが政策の基本となった。しかし他方、放射線障害防止法も生きたままなので、今この国は完全なダブルスタンダードの状態が続いていて、緊急時の基準が日常に持ち込まれているのである。非常時が日常になる、それは言葉を換えれば戦争である。事故から5年経った今、日本人は非常時に慣れ切ってしまい、事故さえも風化しかかっている。福島の人々にとって、憲法に定められた「健康で文化的な生活」は何処にもない。いや、この国で暮らす全ての人々にとって、今は非常事態であることを改めて自覚し、未来のために如何すべきかを考えなければならない。

 30年前に起きたチェルノブイリ原発事故のあと、ウクライナの汚染地域で暮らす人々は自分たちを「チェルノブイリ人」と呼んで事故の意味を自覚した。24年前、チェルノブイリ救援・中部がもらった現地の少女の自画像は、左半分が美しいリボンと洋服で着飾った可愛い少女だが、右半分は全身灰色に塗られていた。事故前後の自分だという。原発事故によって世界が変わったという自覚がなければ、これからの人生を人間らしく生きられないのではなかろうか。



戻る