「チェルノブイリスタディツアーに参加して」

上田 千津子(平針教会)




 2013.9.10〜18の期間で、NPOチェルノブイリ救援・中部主催のスタディツワーに参加してきました。暑い日本を出発し、雨の少ないというウクライナに到着しましたが、滞在中は観測史上110年ぶりという雨の日ばかりでした。ウクライナは普段雨があまり降らないので傘を持っていない人が多く平気で濡れて歩く人を多く見かけました。勉強もさることながら、世界遺産を2つも見学できました。さらに滞在したキエフのホテルの真向かいにカトリック教会を見つけ(こちらはロシア正教が圧倒的多数)ミサに与かりちんぷんかんぷんの(ウクライナ語)御言葉に耳を傾け、日本とは異なるやり方で御聖体もいただきました。

 さて、私は学問的な数字などは詳しくないので心に残ったことを書かせていただきます。まず、ウクライナでも最も汚染の激しいジトーミル州北部のナロジチ地区行政副長と会見。最後にこの地方の言葉を教えてくださいました。『一番最後に死ぬのは希望』

 次はナロジチのおひさま幼稚園視察。お昼寝の時間なのに私たちの到着を待って、かわいい子どもたちが出迎えてくれました。園長先生の言葉『福島の事故が起きた時、自分のことのように他の先生たちと泣きました』これを聞いて南相馬から参加したご夫婦がこらえきれずに泣いておられました。本当に苦しみや悲しみを分かち合えるのは被災者同士だからなのでしょう。

 次に向かったのはナロジチ中央病院。一般病院ですが、国などの支援がなかなか受けられず相当老朽化していました。その医師たちの説明のあと、最後に内科医への質問。夢はなんですか?『診るべき患者が1人もいなくなること。』

 翌日はジトーミルの州立小児病院見学。院長先生の福島の子供たちへのアドバイスをお聞きしたところ「私にはわからない」と言われました。かえって誠実さを感じました。ここには文を省きますがいくつかの注意事項の助言もいただきました。先生自身も事故当時被災されましたが、ご夫妻とも医師という仕事のため、『事故直後、嫌がる子供を1人で遠距離に避難させ当時はとてもつらかったが今はよかったと思っている』とのことでした。事故当時はソ連時代で子供たちだけはウクライナ南部の放射線の高くない地域に義務として移動させられたとのことでした。

 9月14日はゼムリャキ訪問。チェルノブイリ原発従事者のために作られたプリピャチの町からキエフに移住させられた人たちの市民団体がゼムリャキ(同郷人たち)です。福島の被災者はこれからどうやっていけばよいか、という質問に『毎日時間通りに体操したり忙しくした方がよい。戦うべき、生きるべき・・・』と74歳の男性ががんなどの手術跡を私たちに見せながらお話しくださいました。

 後はジトーミルの消防署。こちら側からの質問で、強制的に事故現場に行かなければならなかった時の気持ちは?に対して『われわれはいつも使命感にあふれている。それを隊員同士信じあっている。』が答えでした。その後、場所を移して食事会。ウクライナの方々のもてなしは激しく陽気で、私もウォッカをおいしく飲めるようになってしまいました。

 また、国立チェルノブイリ博物館ではチェルノブイリの事故の記録のみならず、「フクシマ」の事故の写真や説明のコーナーも設けてあり(どなたが言われたのかを失念しましたが、「我々はともに不幸に見舞われたがそのおかげで友情が生まれた」というのも印象的でした。

 そして、今回最大の難関、バンダジェフスキー氏をお迎えしての質疑応答です。彼は1957年ベラルーシ生まれ。医師・病理解剖学者です。一時は冤罪をでっち上げられ投獄されていましたが今はウクライナに住んで被曝と病気についての研究をされています。興味のある方は日本語に訳されているものもありますので、お読みになればよいと思います。

 まだまだ、お伝えしたいことは山ほどありますが大切なのは、自分の目で見、聴き、感じることだと思いました。チェルノブイリ原発にも近くまで行き圧倒されましたが、ただ建物を見るだけでは成果は少ないでしょう。そういう意味で人間同士のつながりを築いてこられた、チェルノブイリ救援・中部の22年間の活動に対し敬意と感謝を捧げます。

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