「2012年版自民党憲法改正草案について」

アンブロジオ 猪瀬 俊雄(高蔵寺教会) 




 1 世上、憲法改正の問題といっていますが、その発言を聞く限り、本音は新憲法の制定を想定しているのではないかと考えます。改正を主張する最大の動機が米国からもらった或いは押しつけられた憲法だからという点を強調していること、天皇を国家元首とする等天皇の地位に強くこだわり、国家権力の強化、基本的人権の譲歩を目指している改正の方向、改正草案の前文の締めくくりが「ここに、この憲法を制定する。」とされていることからです。憲法制定権と改正権とは異なります。人々はその毎日の用事以上に大事なことがあることをあまり意識しません。法律家でもそうです。憲法問題が大きな問題となるのは、基本原理から憲法を作り直そうとする動きのあるときではないでしょうか。今回もそのような動きだと思います。一言でいえば、戦前体制への回帰をめざす、憲法の3つの基本原理の否定を含むものであり、現憲法が無効だとする憲法の制定へと踏み込もうとしているものだと思います。憲法改正問題を概観しない限り改正条項についてだけ論じる意味は殆どありません。

2 憲法制定の目的
 近代の憲法は、2つの主要部分からできています。1つはどのような統治機構とするかであり、もう1つは権利の宣言または権利の章典といわれる部分です。憲法を制定する目的は、法の支配を確立し、国家権力が正当に行使されることを確保し、国民を国家権力の濫用から守ることです。皆さんもご存じの立憲主義です。マグナカルタ(大憲章)に始まる拳法の歴史を振り返れば明らかでしょう。ここから憲法が最高法規として、憲法に違反する法律、命令、規則又は処分は違法となり、殊に国民主権に反する憲法も基本的人権を制限する憲法も違法となり、効力を有しないものとされ、それ故に通常の法律の立法手続よりも厳格な手続を必要とされています(硬性憲法)。政治権力、それを支える勢力が冷静さを失い、暴走する危険は常にあり得ます。軟性憲法では暴走を縛る機能は期待できません。また、三権分立の統治機構により独立性を持った司法権による憲法に適合するかしないかについての最終的審査・決定権を与えているのも国民を国家権力の濫用から守るための実際的意義のある大事な制度です。現行憲法の前文をもう一度ざっと目を通して下さい。この前文に憲法制定の趣旨と基本的立場と基本的原理ないし根本理想とが表現されています。そして次に自民党の憲法改正草案(以下「自民党改憲案」といいます。)の前文にも目を通して見て下さい。人類普遍の原理に基づくとする憲法に対し、「長い歴史と固有の文化」に基づく「天皇を戴く国家」という発想は、人類の歴史、文化の到達点から敢て逸れて異なる原理を目指すものであることがお分り戴けると思います。

3 前文に明らかなように憲法は、基本原理として国民主権と平和主義と基本的人権の尊重の三つを掲げています。

(1)国民主権
ア 国民主権は、前文第一段にあります。人類普遍の原理と表現しています。
この主権概念は、歴史の中で発展してきたもので、過去も現在も混乱の種ともなってきた、理解するのがかなりやっかいな概念です。
中世においては、皇帝の権威が、又近世初期においては絶対的国王の権威が政治団体に天下ってきてその上に置かれていた(王権神授説)。やがて国家(時には国王の人格と同一視されて)という概念が政治団体全体の概念として出現してくると、この全体は、多元的に重層的に構成された政治団体の上に置かれ又は包み込み、自然的かつ不可譲な権利によって上からの権利を享有するもの、すなわち、主権を有するものとなった。フランス革命の時にこの全体と観念された国家と人民(政治団体の実体)が同一視された。そして、国家を法人とする理論により人民に帰属せしめられた絶対的主権の属性は国家によって要求され行使されるようになった。このような次第で、近代、専制的ないし全体主義的国家観念が広く受け入れられるようになった。(本来、人民は国家の上にあります。人民が国家のためにあるのではなく、国家こそ人民のためのものであるのにです。二〇世紀前半に全体主義的体制が人間と国家に関する哲学を展開し、二度にわたり世界大戦を引き起こしたことへの反省の結実が現行憲法です。しかし、またぞろ全体主義的な勢力と考え方が民主主義体制に強力な挑戦をしてきています。

 この問題につき、光を当ててくれる著書があります。民主主義体制の実用主義的立論だけでの弱さを実感したことから民主主義が合理的な原理の上にしっかりと基礎づけられていることを示す哲学を求め、それに応えたものです。すぐれたカトリック哲学者、現代の代表的思想家の一人であるジャック・マリタン教授の「人間と国家」(創文社)です。

 さて、主権の最初の定義をしたのは、@ジャン・ボダンの主権君主論といわれています。君主は、自己の上に絶対的に何も戴かない存在ではなく、「神及び自然の法」に服するものであったが、「人民から分離され」、「神にしか責任を問われない」「神の似姿である。」、すなわち、君主の権力(主権)は、被支配者の頂点より上方に位置して、政治団体全体を上から支配するものと捉えています。主権の2つの要素として…@)自然的かつ不可譲な権利。A)絶対的にまたは超越的に至高な権利。を指摘しています。Aこのような主権の観念は、絶対的君主から絶対的国家に継承された。ホッブスのリヴァイアサンもしくは可死的な神の成立です。契約によって与えた平和と守護(安全)のための権力(共同権力)を恒常的かつ永続的なものにするための仕組みは、すべての人が相互に「私はこの人間もしくは集会を承認し、私の自治の権利を彼に与える――汝が同じように汝の権利を彼に与え、彼の全ての行為を承認することを条件として」と告げるかのような仕方で。人々が全ての権力と能力とを一人の人間または一つの集会に譲渡して、彼ら全ての意志を、大多数の意見によって、一つの意志に還元してしまうのである。……一人にして同一の人格において、彼ら全てが真の合一体となることに他ならない。この人格を担う者が主権者と呼ばれる。といっています。王権神授説を否定し、人民に主権を取り戻そうとしたたこの考え方は、絶対王制を合理化する結果になってしまった。

 素直に考えてみると、人間の完全な自己充足的な社会に完全な対内的自律の権利があり、完全な対外的自律の権利があることまでは理解できると思います。しかし、このような完全な自己充足的な意味での政治団体の本性は多かれ少なかれ失われつつあるのが現実です。都市国家から近代の国家にたどり着いたが、今やそれも残影になりつつあります。いずれ世界国家へとたどり着くことになるのだと思います。

 話を戻しますが、国家は、自己充足的社会ですらありません。国家は、政治団体の一部であり道具的機関であるからです。リアルに見れば、国家は、官僚機構であると言っていいでしょう。国際共同体との関係で独立等の権利を有するのは、国家が政治団体を代表するものとしてです。いわゆる国家主権です。政治団体は、家族を始めとする多元的、重層的社会であり、私には充分に把握も説明もできませんが、単純に図式化して例示すれば、市町村が最も身近な自治体として機能し、それでは賄えない共通の問題を取り扱う(共同善に奉仕する)機関として都道府県が、さらにそれらに共通する問題を取り扱う機関として国家が存在するといったものだと思います。したがって、国家は、第一の要素である完全な自律社会としての独立と権力に対する自然的かつ不可譲な権利も第二の要素である独立と権力との絶対的かつ超越的に至高な性格も有しません。政治団体は、第一の要素は有しているが、第二の要素は有していません。政治団体の実体である人民あるいは国民についても政治団体と同様に第一の要素は有しているが、第二の要素は有していません。それどころか、かれらは、いつも勘定を払わせられる者で、自分らの誤りを、自分らの汗と血をもって清算しなければならない者である。責任を問われる主権という概念はあり得ません。

 マリタン教授は、「主権という言葉は、いつもその真正な・根源的な意味を漠然と含んでいる。しかし、われわれは、いかなる人間的機関もそれみずからの本性からして人々を統治する権利を有するものでないことを忘れるおそれがある」「政治社会においては、権力に対するいかなる権利も、それが或る人とかある機関によって所有されるのは、その人なりその人間的機関が政治団体において共同善に奉仕する一部分である限りにおいてであって、その部分は、この権利を、自分自身を治めるという基本的権利を行使している人民(国民)から、或る限定された範囲内において、授けられているのである。」と指摘しています。

 ところが、フランス革命を指導する理念となり、フランス人権宣言の成立に導いたといわれるBジャン・ジャック・ルソーは、「社会契約論」において、社会契約は、政治団体にその全成員を支配する絶対的権力を与える。そしてこの権力が人民の全体意志とは区別される全員に共有される「一般意志」(全体意志から相殺されて残る意志からなる)によって指導されるときは離存的、絶対的、超越的な権力、真正な意味の主権となるという。この一般意志は、共同体全体の利益を反映する「常に正しい」普遍的意志であるとする。このようにして、絶対君主の権力を清算する代わりに、同様な離存的、絶対的、超越的な権力を人民へ贈り物にしようとして、かつてなかったほどの全体主義国家へと向かわせてしまった。

 主権と絶対主義という二つの概念は、同じ鉄床で一緒に贋造されたものである。二つとも一緒に廃棄されねばならない。と言い切っています。主権がやっかいな概念でよほどどのような意味で使用しているのか明確にとらえ慎重に扱う必要のあるものだということはお分かり戴けたと思います。

 こういう歴史の流れの中での自民党改憲案の位置づけを考えてみようと思います。

3 具体的な自民党改憲案の検討
 「天皇を戴く国家」(前文)とし、天皇を対外的に国を代表する「元首」(第1条)とし、憲法が「天皇又は摂政及び国務大臣…は憲法を尊重し擁護する義務を負う。」としている義務者の中からわざわざ天皇を削除し(第102条2項)ていること、第7条4項に「天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。」と憲法が「内閣の助言と承認を必要とし」ているのを「目上の者に意見を申し上げる趣旨の表現に変更していること等をも併せ考えると、現行憲法が単なる象徴として政治組織とは切り離してその外に置いている存在を国民の上に戴く存在、国民から離存する君主的存在に近づけようと腐心しているとしか思えません。さらに「長い歴史と固有の伝統を持ち、」「国民統合の象徴である」との表現には、人類が到達している憲法理念に沿った現行憲法が人類普遍の原理であるといって自然法に基礎を置くのとは異なり、殊更に我が国固有の伝統を主張するものであり、歴史的に克服されてしまっている被支配者から離存的、超越的な主権概念にこだわる君主主権の亡霊が時代錯誤的にさまよい出てきた思いです。そもそも政治社会の終局的目的は、窮極的価値である人間の生活そのもの状態を向上させることであり、その任務は、人間がかれの真正な発展の自由、自律を獲得するのを助ける仕事です。その活力は、絶えず政治団体内の人民からわき上がるべきものであり、政治団体内の事柄は、多元主義の原理に従い、国家より下位の機関や社会の事柄はそれぞれの自律的仕方で実現されるべきである。しかし、全体主義的国家は、その本質からして、人民(国民)が国家を真にコントロールしたり監督するのに用いるような手段をすべて抑制しようとします。

 自民党改憲案のこの立場は、後でもう少し詳細に説明する予定の基本的人権に対する姿勢からもよく分かります。

 平和主義
 憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の残禍がおこることのないようにすることを決意し」と侵略戦争に対する反省と決意を表明しているが、自民党改憲案では単に「先の大戦による荒廃」と表現している。これは、例の慰安婦問題の発言や盧溝橋事件の否定等一連の政治家の発言とつながる人間に対する基本的姿勢、世界観の問題です。その他の主な具体的改正項目は、「集団的自衛権の肯定」(第9条2項)、自衛隊の「国防軍化」(第9条の2第1項)、「軍事審判所の設置」(第9条の2第5項)、「緊急事態宣言」制度の新設(第98条)です。歴代内閣は、自衛権を、「個別的自衛権に基づく、自衛のために必要最小限度の実力組織であるから、憲法の禁止する戦力には該当しないと強弁し、「交戦権を持たない」と説明してきました。こうして自衛権は、自衛隊の形成、拡大にとって、有効に機能してきました。しかし、1991年以降、自衛隊の海外派遣が常態化するにつれこの自衛権論は手枷足枷になっていった。他国への派遣であるから、武力の行使・威嚇は禁じられ、また活動地域は、「非戦闘地域」に限定されるからです。このジレンマを突破する口実が「集団自衛権の肯定」です。安倍首相らが盛んに対中国、韓国を言い立てて煽っている理由です。地域も武力の行使も戦力の拡大も歯止めを失います。

 本格的戦争となれば、当然に核兵器の使用をも覚悟せざるを得ず、日本国自体、正力松太郎、中曽根康弘等の保守政治家が原発の導入を図ろうとしたとき以来現在まで潜在的核兵器の保有目的を強く秘めていることは公然の秘密という状況にあります。核兵器を使用する戦争に正戦などあり得るでしょうか。学生時代にカトリック学生連盟の活動としてカトリックの国際法、法哲学の教授である大澤章先生から、正戦論をセミナー形式で勉強させられましたが、そのときの結論もそうでした。自衛隊を「国防軍」としようとするのもその一つですし、「緊急事態宣言制度」に至っては、発令要件が明治憲法以上にあいまいで緩いものである上、「緊急勅令の制定・緊急財政支出の実施」には「帝国議会の閉会」や「帝国議会の招集不能」の要件も必要としていないもので、暴走を抑止する手段もない極めて危険なものです。文民統制の実質的な廃止を目論む第66条2項の全ての大臣は、現役の軍人であってはならないとの改正条項も問題です。

 基本的人権
 憲法の「最高法規」の章の冒頭の規定である第97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」として基本的人権を保障するものであるところに最高法規性の根拠があることを示している。自民党改憲案では、この規定を削除している。改憲案Q&Aで「人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要」とし、「天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直」された対象となったものである。対照表の第11条から第15条まで、第18、19、20条、21条、29条を対比してみて下さい。第12条、13条、21条、29条に憲法では、人権相互の衝突を具体的に調整する原理としての「公共の福祉」が掲げられているところ、自民党改正案ではこれに代えて「公益及び公の秩序」という文言が採用されています。一見似ているようですが、「公共の福祉」は、例えば表現の自由相互で衝突する場合の調整に必要な限りでの制限を意味するものとされるのに対し、「公益及び公の秩序」は、公益又は公の秩序という他の利益による制限を意味する全く異なる原理に基づいている疑いが濃厚です。第11条、12条、15条、19条、20条、29条についての自民党改正案は、人権保障のために権力を制限するのが憲法の目的であることを明確に理解していないのかあいまいにしたいのか第11条の「享有をさまたげられない。」を「享有する」としたり、第15条、19条、29条の「侵してはならない」との明確な禁止規定を単なる「侵されない」或いは「保障する」との文言に代えたり、特に自民党改正案第102条は、国民の憲法尊重擁護義務の規定を新設しており、権力制限規範である憲法の目的についての無理解なのか、権力側の立場をあいまいにしようとしているとしか思えません。

 先ほど申し上げたジャック・マリタン教授は、「人権の哲学的基礎は、自然法である。遺憾ながらこれ以外の言葉は見当たらない。」といっています。自然法とは、人間の定める法に先立って存在し、人間の法に基礎を与える普遍的法といったものです。この考え方は、人の定めた法に従わず「いつでも、いつまでも、いきているもので、いつできたのか知っている人さえいない」不文かつ不可変の法に従うことを選んで破滅させられたアンティゴネ−に遡ります。人間に本性があり、それが万人において同一であることを前提として、人間の理性がそれを発見することができ、人間の意志が、自らを人類の本質的・必然的目的に合わせてゆくために、それに従って行動しなければならないような、秩序もしくは配剤、これが自然法であるといっています。……「本質に基づく機能の正常性」…‥天使はくまなく知っているでしょうが…‥自然法に関する知識は、人間がその歴史の種々の時期において積むことのできる道徳的経験・自己反省・社会的経験の度合いに比例して発展するものだ。古代及び中世においては人々は、自然法について、人間の権利よりもむしろ人間の義務に注意を払った。一八世紀は、自然法によって要請されている人間の権利を完全な明るみへ引き出した。このわれわれに最も基本的な義務を課しかつあらゆる法の拘束力の源泉である自然法、その同じ自然法がわれわれにわれわれの基本的権利を与えるのである。このように人類が存在を続ける限り発展し続け、ますます洗練されて行くであろう。といっています。

 自然法についての適切な観念が人権の理解に欠かせないことを理解していただけたと思います。われわれが宇宙の創造的英知の秩序―諸々の法及び規範のうちに組み込まれており、同時にわれわれが精神的本性を分有するという特権を有しているからであることをご理解いただけたと思います。キリスト教の信者にとっては、確信を持って受け入れることのできる考えだと思います。創造主がその交わりへと招いて下さる被贓物の人間に相応しい秩序を設けて下さっていること、神の似姿として作られた人間の理性に堅い信頼を抱いていることからです。人間の生存権・人格的自由権・道徳的な幸福追求の権利などは、厳密な意味で自然法に属し、憲法もこの原理に基づき基本的人権の享有を妨げてはならないこと、侵すことができない不可譲の権利であることを謳い、人権相互の調和について慎重な考慮をめぐらせています。これに対する自民党の改正案は、侵すことのできない永久の権利との文言こそ残しているが、自然法、天賦人権という考え方にむしろ人をわがまま勝手にさせるものとして敵意を抱いており、第13条の「個人として尊重」をわざわざ「人として尊重」と言い換えており、人はひとり一人がかけがえなく大事という考えには抵抗があるようです。人間は国家より先にあり、国家は人間のための道具にすぎないとの真理を忘れてしまっているようです。自然法については、先ほどの大澤先生は、シャルマンの自然法の再生を翻訳されておられる方で、その後指導を戴きました。

 4 結論
 冒頭に自民党改正案の目指すものは、戦前の体制への回帰であるといった意味もお分かり戴けたと思います。安倍首相自身「以前の日本を取り戻す。」といっているとおりです。それが実現されそうな崖っぷちにきてしまっています。もしそうなると、日本は、人類の文化の流れからそれてかなり特異な憲法を持つ国となるでしょう。加えて、充分な報道も議論もされないで軍事路線の拡大を模索し、膨大な国の債務拡大政策に頼るインフレ政策を中心とするいわゆるアベノミックス、マイナンバー制度、原発の再稼働、八ッ場ダム等の再開や巨大防波堤の再建を含む公共事業中心景気刺激策、教科書検定制度その他の教育問題の改訂、労働法制の改訂等小泉内閣の手法そのままに次々と問題の多い政策に暴走しだしています。原発問題について、お話ししたときの結論を繰り返したいと思います。社会制度に関係する問題は、どんな政治体制のもとにあろうと、結局社会構成員の見識に支配されざるを得ないし、まして私たちは、民主主義体制で生きています。社会の監視体制が弱く、その伝統が築かれていないとはいえ、いまこそこれを自覚して私たち一人一人が社会の主体的参加者として憲法改正問題にも、原発等の問題にも取り組んで行くように活動する必要を痛感しています。

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