今週の一句
曇り空 ひときわ艶やか 七変化

―もとゐ―


 2022年7月3日(日)
 年間第14主日

 ルカによる福音書10章1節-12節、17節-20節

10,1 〔そのとき、〕主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
10,2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
10,3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
10,4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
10,5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
10,6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
10,7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
10,8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
10,9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10,10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
10,11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
10,12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
10,17  七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 
10,18  イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 
10,19  蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 
10,20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」 

 9章と同様、このイエスによる弟子への宣教派遣命令はガリラヤでの運動とは趣が異なるように思える。

 確かに、イエスがなした悪霊追放と病気癒しのため遣わした(ルカ9・1,2)とあるが、弟子たちを「受け入れない者がいれば」(ルカ9・5、10・17)の言葉はガリラヤ民衆の熱烈歓迎とは相いれないからだ。

 更に、今日の直前の箇所でエルサレムへ上京するとあるので、この宣教命令はエルサレムの都の住民、なかんずく、ファリサイ派、祭司、支配者への「悔い改め」の宣教なのではないか。当然、彼らは拒否するだろう。

 しかし、その困難さを承知でイエスは72人を遣わすのだ。そして、イエスは弟子たちの働きによってサタンの天からの墜落の幻を見た、と言う。明らかに、これはルカの救済史観、すなわち、イエスから委ねられた弟子たちの宣教によって全世界へ神の救い成就すること(参照 使徒行伝)を示しているのではないか。
今週の一句
くちなしや 微笑照らす 雨の雲

―もとゐ―


 2022年7月10日(日)
 年間第15主日

 ルカによる福音書10章25節-37節

10,25 〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10,26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10,27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10,28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10,29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10,30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10,31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10,32 10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10,33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10,34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10,35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10,36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10,37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

〈もとゐ閑話休題〉
 イエスのエルサレムへの宣教旅行記から外れる。「悔い改め」た信徒の生き方が問われる。イエスと律法学者との討論になっているが、律法学者とは「悔い改め」たキリスト教徒のことを暗示している。

 イエスにとって「律法=神の言葉」とは、自分を大切にしている神への感謝、賛美としてどう生きるかの指針だ。即ち、ガリラヤの豊かな自然に生かされた自分が感謝として今飢えて苦しむ他者を大切にしたいであって、後者のように自己を終末の裁きに合格して永遠の生命を得るためではなかった。

 後者のイエスへの質問、「永遠の生命を得るため」つまり神に喜ばれる生き方は何かの問いは、ユダヤ人なら誰もが幼少時から日夜唱えていることだから分かり切っているはず。それを敢えてイエスに聞いているのは、後者は合格するため律法の言葉を厳格に守っている自分たちこそ「神の国が近づいた」(=終末の裁き)と宣教するイエスから誉められて当然だと自惚れていたからだ、

 ところが、イエスは後者の立派な答えを称賛しながら、意表を突き「それを実行したら」と付け足し譬えを話した。ところで譬えを聴いた彼らは祭司やレビ人の振る舞いに憤慨しただろう。しかし、彼らも祭司たち同様「神への全身全霊の愛」は「聖」であること、宗教的清浄さの優等生になるため、律法に従い不浄なものへ触れず、近づかず、食しないで祭儀に連なろうと努めていたのだ。

 しかし、「聖」に努めれば努めるほど、苦難にある人たちを分け隔ててしまっていた。と言うのは、後半の「おのれの如く汝の隣人を愛すべし」を限定していたから。ユダヤ人にとって「隣人」とは彼らと同じ信仰共同体に属し「聖」を守る人に限られていた。だから、異邦人、「罪人」、「遊女、徴税人」、貧者、病人は律法を守らない『汚れた人』ゆえに「隣人」ではかった。従って、彼らには、強盗に襲われ倒され傷つけられた人は血を流した「不浄」な人だから無視し置き去りにしてきたのであった。

 彼らの「聖」とは苦しむ人を無視したもの。けれども、イエスの譬えを聴いた人たちは祭司やレビ人に憤慨し、同様な自分たちの無関心に気づいたのだった。そもそも、モーセの律法(レビ記19章)を素直に読むならば神の思いは虐げられた人たちへの関わりとなっている。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを想い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24・17)「隣人への愛」の呼び掛けはまず奴隷であった自分に対し無条件で関わり、解放してくださった神の大きな愛を想い起こすならば苦難にある人たちを無視できなくなるのだ。

 神とは苦難にある他者にこころ痛め、隣人となる『共感』コンパッションの言い換えではないか。譬えから彼らは気づいた。彼らは強盗に襲われ傷つき倒れた人を助けた異邦の民サマリア人とは実に自分たちを奴隷から解放された神であることを。その神への感謝と賛美は、コンパッション、即ち、他者への共感に努めることなのだ。彼らはイエスの「あなたも言って隣人になれ」に胸を叩き、回心したのであった。
今週の一句
梅雨明けや 病室に届く グッドニュース

―もとゐ―


 2022年7月17日(日)
 年間第16主日

 ルカによる福音書10章38節-42節

10,38 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10,39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10,40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10,41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10,42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 今週は前回に続き、信仰生活を考えさせられる。

 そもそも信仰生活とは『良きサマリア人』の譬えから分かるように、神の呼び掛け(あなたは無条件に大切にされている)に感謝と賛美の応答だ。

 ここではマルタ・マリア二者のそれぞれの信仰生活、前者は神に誇る姿、後者は神の憐れみに縋る姿を描き、どちらをイエス、つまり神が喜ばれるかを問うている。

 まず、聖書からその呼び掛けに応えた人たちの例から見てみよう。モーセは犯罪者にもかかわらず神からエジプトから奴隷の民を解放する大使命を与えられた。モーセは遂行する中で、民の不平に耐えられず、何度も神と対話し、重荷を負いながら目的の土地へ民を導いたのであった。

 エリアを筆頭とする預言者たちは自己の無力さに嘆きながら絶えず神との対話を繰り返し、弱音を吐き、折れそうな心を立て直し、王などの支配者からの迫害にめげず、王たちの不正義を告発した。無名なイエスは「神の国」運動、つまり、病人癒し、供食をするにあたり、多忙さに己を失いかけたとき、人里から離れ「祈り」った。

 神の前に立ち自己を振り返った。自己の無力さ、罪深さ、至らなさに気づき、神の言葉に耳を傾けた。そして、指針をいただき、他者との関わりに出かけた。(人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだってッ神と共に歩むこと、これである。ミカ6・8)マリアかマルタかではなく信仰生活を続けて行くにはまず何より神の前に膝を屈め、み言葉を傾聴することを忘れてはいけない。

 先の『良きサマリア人』譬えでも、律法学者は自己流に解釈し律法を守ったが、神の前に身を置かなかった。イエスは「必要なことは一つだけだ」とマルタに諭すのであった。(しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51・19) 
今週の一句
初蝉や 待ちに待ったよと 散歩して

―もとゐ―


 2022年7月24日(日)
 年間第17主日

 ルカによる福音書11章1節-13節

11,1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11,2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11,3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11,4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11,5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11,6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11,7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11,8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11,9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11,10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11,11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11,12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11,13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 今回は、イエスの弟子たちが洗礼者ヨハネグループのように祈りをしたいから、イエスに「祈り」を教えてくれと願った場面だ。

 これもまた奇妙だ。と言うのは、ユダヤ人ならば何を祈るかは自明だから。(例、朝晩唱えた「シェマーの祈り」、)しかし、祈りに熱心な律法学者たちが神のみ心の「隣人になれ」に背いているのを見ているイエスは神頼み、自己義認の唱えるだけの「祈り」(参照 マタイ6・7、26)を弟子たちには勧めないだろ。

 むしろ、「祈り」を前回の意味での神の前に膝を屈め、み言葉を傾聴し、そして、隣人になるために出かけること、つまり、神への応答として自分たちとは「何をする」かの合言葉であることをイエスは弟子たちに示されたのだ。

 即ち、ガリラヤでのイエス運動は「貧しい人たちへのパンを求め、重荷を軽くすること」であると。そして、それこそ、神への愛であると弟子たちにイエスは諭すのであった。従って、後半の父に願えば適えてくださる、は通俗的意味である故に、イエスの言葉ではないだろう。ここには、前回の「マルタとマリア」の逸話の意味が示されている。
今週の一句
雷鳴 遥か遠くの 夏休み

―もとゐ―


 2022年7月31日(日)
 年間第18主日

 ルカによる福音書12章13節-21節

12,13 〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12,14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12,15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12,16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12,17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12,18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12,19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12,20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12,21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 引き続き、悔い改めてイエスを救い主として信じるキリスト者の生活とは。

 今日は「富」について。ルカ福音書には金持ちがよく登場する。例、金持ちとラザロ、取税人の頭ザアカイ、金持ちの青年と今日の大土地所有者だ。

 イエスに遺産分配者を頼んだ人への訓戒として譬えが語られている。「貪欲に気をつけよ。自分の生命は自分の所有物ではない」と。

 さて、イエスは豊かな自然に恵まれながらガリラヤ農民たちの困窮を目の当たりしている故に、貧困の原因が社会構造にあることを知っていた。つまり、エルサレムの大土地所有者の搾取によることを。だから、彼の言い草には我慢できなかった。他人の不幸の上に富を築き、人生を我が物顔にする姿勢に。

 イエスは富に執着する人たちへそもそも自分の命とは神からの賜物であり、命に必要な物をすべて神が用意されているではないか、「空の鳥」「野の花」の例から思い起こさせ、神は「生かし合う」、生命の連鎖である自然に人を置き「何を食べ、何を着るか」と自分の命、身体のことを思いわずらう、即ち、搾取、滞留ではなく、安心して「神の国」、即ち、互いを生かし合う命の連鎖、循環である「神の正義」、『自分の財産を売って慈善を施せ』と勧めるのであった。 
今週の一句
蝉時雨 病院帰りの エールかな

―もとゐ―


 2022年8月7日(日)
 年間第19主日

 ルカによる福音書12章32節-48節

12,32 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12,33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12,34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12,35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12,36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12,37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12,38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12,39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12,40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12,41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12,42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12,43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12,44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12,45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12,46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12,47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12,48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 イエスは前回の金持ちの譬えを、ペテロはじめ弟子たちへの戒めとして語っている。金持ちは人間の生命、身体が神の賜物であり、それらは、神の計らいのもと、つまり、互いに生かされ生かし合うことによって養われ、装われていることを忘れ、自分のものであると誤解し、他者を犠牲にし、利己的に生きていたのでした。

 しかし、いくら富をありあまる程蓄えても、自分の生命を思い通りに延ばし、食べたり飲んだりして楽しむことは出来なかったのです。生命を与えられた神はそれを取り上げたからです。

 弟子たちにイエスはその金持ちが「目を覚ましていない僕」であると言い、目を覚ましていなさい、つまり、神様が人を「空の鳥」や「野の花」より大切にしてくださる神の思いに気づき、応える僕になるように勧めるのだ。神様の思いは神から預かった生命を他者のために奉仕することだ。その僕を「主人が召し使いたちの上に立てて、時間通どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人」とイエスは賛美するのだった。」


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